ユマニテ第1期(創設~約10年目)座談会/なぜ歌うかの論議

ユマニテ史への想い
自己紹介と進め方
 ├ うたごえ運動からのスタートとその影響
 ├ なぜ歌うかの論議,政治とのつながり,読書会
 ├ 先駆け的な定期演奏会,そして「林光アーベント」
 ├ どんな「仲間たち」とも何処でもいつでも
 ├ うたごえ運動のあれこれとその名残
 ├ 1960年代後半,世の中と活動の曲がり角と変化
 ├ 団員の減少とユマニテの魅力と。津田塾大との関係
 ├ 60年代後半に迎えた時代状況からの難しさ
 ├ 声を合わせる楽しみ。冊子『ユマニテの歴史』
 ├ 仲間たちとの人生。高島善哉部長ほか先生
 ├ 団の運営組織の今と昔 -運営委員と音楽委員会
 ├ 黒人霊歌のリズム,指揮者ごとの異なる表情
 ├ 今日の感想とその後のユマニテ史
 └ 『ユマニテの詩』


●なぜ歌うかの論議,政治とのつながり,読書会 

(A)我々の世代,初期の頃は,戦争なり空襲なりを感覚的に知ってますから,どうしてもやっぱりそういう匂いがでますね。

(B)そうそう,戦争がね,実際に鉄砲をもったわけじゃないけど,体験してる世代が残ってたから,やっぱり平和を守るというのは当り前っていうかね。政治的な云々じゃなくて。

(A)一部の人たちはいわゆるイデオロギー的な発想がかなり強かったけれども。あまり僕らはイデオロギーを持ち込みたくなかったというのはありましたね。

(B)私なんかも全くそうでした。

(A)当時の世相はそうだから。やっぱり時代でしょうね。

(H)僕の頃はノンポリ(当時より後の時代は,政治に関心が無い人をいう)の学生ばっかりで,政治の話もほとんどした記憶もありませんし。あまり授業に出なかったな,という人も多かったですね。

(B)ノンポリ学生といえばノンポリ学生だったよ,僕らも。何かの党派に属したわけじゃないから。(当時の前提として,政治や社会に関心がある学生が多かった。)

(A)僕の前の世代はあった。民青*1の人たちも結構いましたよ。

(A)一橋の場合には,一種の正義感みたいのであって,イデオロギーはあまり激しくなかったな。

(F)津田の人たちは,「歌を歌うのに,なんで政治の問題を頭に置いてやらなきゃいけないのか」っていう,そういう批判がけっこうありましたね。それがいやだという。何人もの女性たちがそう言って。最終的に辞めていった人もいたけども。

(E)津田の女性というのは地方から出てきた,良い家(の子女)が多かったよね。

(A)寮に入っててね。

(D)僕たちの時代も,女性で「歌を歌うのになんで政治が」というのは多かった。「楽しければいいんじゃないの」とか,「何で政治の話を?」と。 (30分経過)

(H)僕の頃も,政治というよりも,「なんで歌うんだ」という議論はけっこうやったんですよね。理屈っぽいな,と女性からは嫌われたというのはあった。

(A)今から思うと,僕の時代も後の方も,政治じゃないな。 

(B)「何のために歌うんだ」という議論はけっこうやったんですけどね。

(E)僕らはけっこう政治的な勉強会に誘われた。

(B)それは僕知らない。

(E)僕の(一橋の)同期には,民青の幹部をやったのが2人いましてね。あの頃は(一橋全体では民青が)すごく強かった。(ユマニテにはいなかったが。)

(A)(ユマニテの中では)いわゆる政治の話はあんまりしなかった気がするな。

(E)僕の記憶で言うと,読書会に,(ユマニテの中のそちらに関心のある人たちから)参加を求められたという記憶が強いですね。

(C)僕の印象もね,政治の話も結構あったという感じがしますよ。何と言っても安保闘争が一番盛り上がった時期ですから,誰もが無関心ではいられなかった。だから,一方で歌を大事にしようという気持ちと,例えばデモに行こうとか,勉強会とかで知識を深めようという思いとが交錯するというか,せめぎ合ってたという感じですね。

(A)僕らの時代は,政治の勉強会というよりもね,マルクス・エンゲルスの『賃金・価格・利潤』・『賃労働と資本』,毛沢東の『矛盾論・実践論』だとか,(またはルフェーブル『美学入門』とか)こういうものを読んで,政治といえば政治になるかもしれないけれど,マル経(マルクス経済学)の書物を読む読書会はけっこうあって,盛んでしたね。けど当時の政治を議論するというのはあんまりなかった。

(A)要は発想として,虐げられた民衆というようなものがあって,そこから発想するというのはかなり強かった。とくにさっきの戦争の傷跡と絡め合いながら話をするというのが,けっこう多かったですね。今から見れば,ある種の正義感の固まりの,学生らしいディスカッションが多かった気がします。一部の人は確かに政治行動もしたけども。

(E)ちょうど僕らが入ったころは,ポスト60年安保という感じで,ある意味で激しい闘争の後で,どちらかというと政治的な議論を持ち込もうという人たちもいたな。

(A)では,そろそろCさんから,音楽のことも含めて。

(C)私は,高校時代からユマニテのことを知っていたので,すんなり入った。・・入ったときから一橋の学生であると同時にユマニテの団員,という生活に入っていきました。  通学生が多く,僕は三鷹に下宿してたんで,例会の帰りに必ず僕の下宿に寄っていっぱい飲むことから議論が始まる。・・例会の後は毎回,そこでいろんな議論をしたり,触れ合ったことが,その後の自分の糧になってる。 (買い出しに数人が出発)  当時よかったのは,合宿が年に何回かあったこと。夏合宿は長野県の青木湖で,長くやっていて6泊7日ぐらい・・。その間は音楽漬けになって,かつ夜になると,夜を徹して語り合うという。音楽論,芸術論,恋愛論,人生論。そうした中で,もちろん政治や社会情勢の話も。そういう世界があったのがやっぱり,ユマニテの一つの特徴だったんじゃないかな。  さっき話にあったように,読書会なんかもけっこうあって。ゼミとは違って,お互い対等な立場でいいの悪いの,そうじゃないこうだと話し合った。だいたい小平の「山王食堂」とか,国分寺の喫茶店「リリー」とかで,・・そんな会も楽しみでね。そういうことで,機関誌の名前になっている「仲間」意識というのが非常に強かった。

さっきから,政治の話がどうとかと出てるけど,例えば,僕が入った年が60年安保闘争*2の年だから何度もデモにいったし,樺[カンバ]美智子さん(東大文学部生)が亡くなった日,すぐ近くに僕たちもいましたけど。それはユマニテの人たちとでなくて,だいたいクラスの学生の人たちと「学生」として行ってましたから,ユマニテとしては行動の強制もないし,誘い合って行くことは全くなかった。行った翌日に自分の感じたこと,考えたことを語り合える機会はあったけど,ユマニテとして政治行動みたいなレベルのことはなかったと思います。*3


*1 【民青】日本民主青年同盟。青年を構成員とする日本の社会運動団体。1923年4月に川合義虎を委員長として設立された団体が前身。日本共産党のみちびきをうけながら,科学的社会主義と日本共産党の綱領,一般的民主的な教養をひろく学ぶことを活動目的として掲げ,各種ボランティア活動,平和運動,労働組合の民主的階級的強化,学費値上げ反対運動,同世代の交流と連帯などの諸活動を行なう。文化・スポーツ活動にも力を入れている。歴史的には,学生セツルメント運動など,学生の活動に広く関わり,担い手を送り出す役割を果たしてきた。青年労働者,高校生ほかも参加する。最盛期の1970年には約20万人を数えたと言われたが,現在は約数万人程度で推移している。
*2 【安保闘争】新日米安保条約は,事実上の日米軍事同盟であり,特にその極東条項は日本をアジアの紛争に巻き込むものだとして,野党はじめ国民の幅広い反対運動が起こっていた。1960年5月の「新安保条約」を審議する国会では,衆議院本会議場に警官隊を導入し,反対議員を実力排除して,自民党だけで強行採決がされた。これが反対の大衆運動に火を付けた。この闘争は,1959年3月結成の安保阻止国民会議に組織されつつ,60年7月までに集会参加者6000万人,反対請願署名者2500万人という,戦後における最大規模の大衆運動となった。デモは連日続いたが,とくに1960年6月15日,新安保条約の反対を叫ぶ全学連,労組など65万人(警視庁発表)が国会を包囲し,戦前・戦後最大級のデモを展開した。さらに全学連の約8000人が国会構内に突入し,警官隊と大規模な衝突がおこった。このとき,東京大学・文学部の樺美智子(当時22歳)が圧死した。警察とデモ隊の双方に数千人の負傷者を出したものの,死者は1人にとどまったのは奇跡と言ってよいほど大規模な衝突であった。条約は自然承認されたが,樺美智子の死は世論を動かし,アイゼンハワー大統領の訪日が中止されたものの,6月19日に新安保条約は自然承認された。23日の条約批准後の日,岸首相は退陣を発表し,戦後史の大きな転換期として位置付けられることになった。その後,自民党政治はその方式を変え,7月に組閣した池田勇人は,寛容,忍耐,対話の低姿勢を打ち出した。
*3 【全学連】全日本学生自治会総連合。日本の学生自治会の連合組織。過去の経緯により,現在これを自称する組織は別々に5つあり,それぞれが正当性を主張する。民青系,中核派系,革マル派系,革労協現代社派系,革労協赤砦社派系である。民青系全学連は,学生生活の日常要求路線だが,それ以外は,学生運動を革命闘争,階級闘争として位置づけている点で,同じ「全学連」を名乗るが根本的に性質が異なると言える。全国の学生に共通する要求の実現へ,思想信条の違いをこえて力をあわせることを目的とする学生自治会は,民青系といわれる全学連に集う。各大学の問題に即して,カリキュラムや施設の改善,図書館の開館の延長や奨学金制度の拡充,就職難の打開,講演会などをすすめてきた。奨学金充実では全国の学生で5万筆の署名を集め,国会要請行動などを行い,学費値上げ反対の署名などにも取り組んできた。経緯としては,1948年,学費値上げ反対の全国的授業放棄運動などを契機に,大学生自治会の全国的連合組織として結成され,翌年,国際学生連盟に加盟した。東京の中央執行委員会書記局,地方学連,都道府県学連,各加盟自治会という組織系統を持つ。結成以来,教育の民主化,平和と民主主義を守ることなどを目的として,破壊活動防止法,原水爆実験,勤務評定,警察官職務執行法などに対する反対運動を展開し,特に安保闘争では大量動員と実力行使でその名を世界にとどろかせたが,他方で分裂を見せることになる。